小説
プルースト
⚠️アルフェンの嘔吐描写あり 苦手な方は閲覧しないでください
2023.04.11に書いていたものを一部修正しました。
ティスビムでの話。
特定の香りを嗅ぐ事により、その時の記憶や感情が蘇る事を「プルースト効果」と呼ぶらしいです。
「特殊調整体1273号」、「ダナ人」、「お前」。それがここでの自分の呼び名だった。
似たような服を着て揃いも揃って機械をいじっている姿は、同じ人間同士であるのに全く違う生き物であるかのように感じてしまう。実験体用に与えられた簡素な部屋では、空を見上げて呼吸することさえままならなかった。
無機質な椅子に座り少しでも休息を得ようと目を閉じるが、遠くから聞こえる研究者同士の話がそれを遮る。調整体1280号が「壊れた」とのことだ。人間が一人死んだというのにその口調に死を悼む様子は全く見られず、億劫そうに廃棄の手順が書かれた書類をパラパラとめくっている。どのように処分されるかは知らないが、それが穏やかな最期ではないとここに来た時から知っていた。
最期までその者の本当の名前を知ることはなかったが、せめて同胞として見送ってやろうと部屋を抜け出し研究室に潜り込む。機械の寝台の上に横たわる用済みとなった肉体の、もう二度と開くことのない目元は穏やかなもので、死をもって自由を手に入れたようだった。だらんと力なく放り出されている手を握ってやりたかったが、レナ人の目がそれを許さない。何もできない自分を歯がゆく思いながら、せめて数百年後の未来に生まれ変わったとき幸せに過ごせるようにと祈り、その場を去ろうとした時。
「1273号! 早く部屋に戻れ! 自由な散策を許した覚えはないぞ」
同じ形をして、同じように生きている人間はそう言った。心ではその声に逆らいたかったが、自由になるためには従うしかないのだ。行動と考えはいつだって食い違っており、そのたびに気分が悪くなった。
色のない廊下を歩いていくと、後ろからまだ年端も行かぬ少年の声が聞こえてくる。「僕たちにそっくりなんですね」と当たり前のように口にされる言葉から、心に刻みつけられた常識が消えることはないのだろうと思った。
ただ帰りたいと願っただけだった。そのために行動をした結果、大勢の人間を殺した。
むせかえるような血のにおい、轟々と燃え盛る炎の色、絶叫する人間の声。記憶を封じていた仮面が壊れた時、脳の奥深くに押さえ込まれていたそれは全て蘇り、鮮烈な色彩のままアルフェンに襲い掛かる。
まるで世界の終わりのような光景を前に、ただ呆然と立ち尽くす事しかできなかった。崩れた瓦礫の中で見つめた手のひらは赤黒い血で汚れており、自分が手にかけたことを嫌でも自覚させられる。
壊れた建物に囲まれ、辺りには人間がいたという跡だけが残っている。吸い込んだ血のにおいは肺の奥深くまで入り込み、そのままこびりついてしまって息がうまくできない。浅い呼吸で目の前を見れば、誰かとよく似た人物が――本当は彼女がこの人物に似ていた、という方が正しいのだろうが――涙を流している。あの研究所においても輝きを失うことのなかった瞳は、今はもう虚ろなものになってしまっていた。
本音を言えば、自分を攫いレネギスに無理矢理連れてきたレナ人なんて死んでしまってもいいと思っていた。ここを抜け出して故郷に、ダナに帰りたかった。家族や仲間と笑いあいながら明日の天気や夕食の話をするような、そんなありふれた生活をどれだけ恋しく思っただろう。
いなくなってしまえと思っていた人間たちは確かに消えた。――自分が、殺した。紛れもないこの手で、数多の命を奪ったのである。
ひゅう、と喉がなる。自分の命は今にも終わろうとしているのに、心臓はうるさいくらいに鳴っている。そして、彼女は――。
そこでアルフェンは勢いよく起き上がり、激しく鼓動を打ち続ける胸を強く握った。夢は鮮明にあの時のことを映し出し、その後遺症なのか無理矢理内臓をかき回されたような気分で吐き気がこみあげてくる。どうにか気持ちを落ち着けたくて、同室の仲間に気づかれないように外に出る。夜風が身体にあたるが清涼感などかけらもなく、ただ汗に触れ体温を奪っていくだけだった。
宿屋から距離を置き、誰にもこんな姿を見られないようにと木の影に隠れ両手を見たとき、網膜が記憶の中の色を映し出した。鮮やかな赤と血のにおいがまとわりついて離れず、身体の奥底から生じる罪悪感を一時的に手放したくて、込み上げるままにアルフェンは体内の物を吐き出した。
「かはっ……!」
生ぬるい体液が地面を汚すのを見ながらどこか冷静な頭で考える。血は、あの時生きたいと、死にたくないと願っていたはずの血はもっと熱かった。せりあがる後悔に苛まれながら何度も強く咳嗽を行えば、体内のどこかを傷つけたのか紅が混ざったものが吐き出される。
喉が焼けるように痛い。痛覚が戻った身体は今まで忘れていたものを教えてくれる。それら全てを受け止めなくてはならないのだと思い、力を振り絞ってなんとか立ち上がる。その視線の先にはブロンドの髪を風になびかせながら海を見るキサラの姿があり、彼女はアルフェンに気が付くとこちらへ歩を進め、汚れた地面を見たのち心配そうに声をかけた。
「アルフェン、大丈夫か?」
「……悪い。情けないとこ見せたな」
「気にするな」
過去の記憶に取り込まれないようにと、重い足を動かし夜の海を見る。篝火に照らされ光る水面は、人間のことなど知らずに穏やかに凪いでいた。
キサラは何も聞かない。きっとアルフェンが思いを言葉にすることを待っていてくれるのだ。暗い夜空に向けて手を伸ばし、ぽつりと独り言のように呟く。何度も心の中で考えていたそれを、今は隣で静かに聞いてくれる人がいることがありがたかった。
「……俺はシオンが伸ばしてくれた手を、取ることができなかった」
「それは、お前のせいでは――」
そうキサラは言いかけて口をつぐんだ。〈荊〉があるとはいえ手を放してしまったことに変わりはないと考えているのを知っているため、簡単に声をかけることはできないのだろう。その気づかいは彼女らしい。
「痛覚が戻って、こんなに痛みとは辛いものなのだとわかったよ。きっとシオンはこの痛みをずっと一人で抱えていたんだ。心の中で、誰にも助けを求めずに」
シオンが初めて見せた涙。それを思い出すたびに、血が滲むくらい拳を強く握りしめてしまう。
「シオンは今、きっと一人で泣いている。俺はそんなの嫌だ。シオンを助けたい」
「ああ。きっとシオンもお前を待っている。早く行ってやらないとな」
そうしてキサラはアルフェンに背を向ける。そして波が岩にあたったときの水飛沫の音に混ざり、呟くように言葉を続けた。
「……これは私の推測に過ぎないが、シオンはお前のその思いに救われるところがあったのではないだろうか」
「だが俺は――」
「エストルヴァの森で勝手にシオンを助けると言ったな。腹蔵ないお前の言葉だからこそ、今まで他人と距離を置いていた彼女に届いたのだろう。揺らぐことがあろうと、自分の足で地面を踏みしめ前を見据える背中に救われた人はたくさんいる。――私も含めて、な」
「キサラ……」
振り返ってこちらを見えるキサラの口元は柔らかく微笑んでいて、仲間にこれだけ言ってもらえる自分を幸福だと思った。努めて大きく息を吐くと、一歩踏み出しキサラの隣に並ぶ。
「それと、お前は大丈夫なのか?」
「正直に言うと、まだ過去のことや自分が何者であるか、記憶のことなど全て整理できたとはいえない。けれど、シオンと別れた時のあの涙を思い出してしまうんだ。あんな顔してほしくない。――笑っててほしいんだ。俺の隣で」
「……そうだな。お前の隣、でな」
「ん、俺変なこと言ったか?」
「いいや? 私もシオンが笑う姿を見たいだけだ」
変なことを言ったかと腕を組んで自分の言葉を振り返るが、どうにも思い当たる節はない。キサラは結局その答えをアルフェンに言うことはなく、大きく伸びをしたのち先に宿屋に戻ると言い海岸を後にした。
記憶にこびりついたにおいが完全に消えることはないかもしれない。それでもこの手で誰かを救えるように、ただ歩き続けることしかできないのだろう。海風は頬を撫で、潮の香りを運ぶ。もうあの幻影は見えなかった。