ARTICLE

記事

小説

薄紅に鋏を入れる日

2022.08.24に書いていたものを直したものです。
キサラとシオン中心。アルシオとテュオキサな感じです。
シオンが大好きなキサラが書きたかった。

 忘れ物がないか、普段より少し膨れた鞄の中を確認して後ろを振り向くと、数時間前まで自分が寝ていたベッドの上にはまだこんもりとシーツが膨らんでいる。キサラは頭に手をついてため息をひとつつき、その山をぱすぱすと叩いてみる。そうすると、ようやく山の主はのそのそと気だるそうに姿を現した。
「テュオ。私はそろそろ行きますよ」
「……もうそんな時間なのかね?」
「寝ぼけてないで早く服を着てください。貴方も今日、アルフェンと用事があるのでしょう」
 ゆっくりと上体を起こしながら脳内を覚醒させていく彼に、甘やかしていると自覚しつつもクローゼットから服を取り出し近くに置く。まだ寝ぼけ眼のテュオハリムであったが、最近一人で着替えができるようになったのだ。それでも気になって隣に腰かけ見守ってしまう自分はお節介なのかもしれない。
 テュオハリムはカージナルレッドの髪に櫛を入れてとかしていく。後ろの方がぴょこんと跳ねているのが気になって声をかけたくなってしまうが、このあと自分で気が付くことを期待して言うのはやめた。彼なりに努力して成長しているのだから、キサラがあれこれ口を出しすぎてもいけないだろう。
 このまま最後まで彼一人で準備ができるか見届けたいところだったが、そろそろ出かけないと約束の時間に間に合わなくなってしまう。キサラがすっと立ち上がると、テュオハリムは少し寂しそうな顔を見せた。
「行くのかね?」
「はい。貴方も時間に遅れないようにしてくださいね」
 昨晩から準備していた鞄を手に、コツコツと靴の音を鳴らしながらドアへ向かう。せっかくの休日だ、この前新調した黄色のヒールを履いてもいいだろうと思ったが、目的地はメナンシアから少し歩く場所にある。今回はやめておこうと思い、次の機会――彼女とリンウェルと、三人で買い物するときなどいいかもしれない――にしようと思ってキサラはドアに手をかけた。
 広い部屋に一人で残されたテュオハリムが、のろのろと動き始めたのを見て思わずくすっと笑ってしまった。
「それでは、シオンの髪を切りに行ってきます」

 
 穏やかな気候の中、風を浴びながら歩くのはとても心地よく、しばらくするとすっかり見慣れた一軒の家にたどり着く。二人分の名前が書いてある表札は陽の光を浴びてキラキラ光っていた。ドアをノックすると遠くの方からぱたぱたと足音が聞こえたのち、ゆっくりと扉が開かれる。そこには柔らかな微笑みを浮かべるシオンがいた。
「遠いところから来てもらってありがとう。疲れたでしょう」
「こんな距離何でもないさ。あの旅に比べれなば」
「ふふ。それもそうね」
 促され玄関を上がると、ダイニングテーブルの上にカップが二つ用意されているのが目に入る。また出来立ての焼き菓子の香りがキッチンから漂ってくるため、きっと用事が終わったらお茶にしようと準備してくれていたのだろう。久しぶりのゆったりとした時間を想像すると頬が緩んだ。
 シオンに案内され庭へと出ると、そこには椅子が一脚と、鋏や櫛が並んでいる小さな机がおかれていた。今日、ここで彼女の髪を自分が切るのだ。
「シオンから提案されたときは正直驚いたよ」
 子供たちの髪を切ってやった経験はあるものの、それは伸びすぎて鬱陶しいといった、おしゃれとは程遠い必要に駆られてものだった。シオンの髪のような、丁寧に手入れされていることが窺えるものを自分が扱うとなると、いささか萎縮してしまう。
 素直に専門の人間に頼めばいいのではないかと提案した時、シオンは花開く前の、蕾のような笑顔で「キサラにお願いしたいの」と言った。そこまで彼女が希望するならこちらとしても断るのは野暮というものだ。
 シオンは椅子に座りキサラに背を向ける。腰までまっすぐ伸びた美しい薄紅の艶髪。指を通せば抵抗なく通り抜けていくそれに自分がこれから鋏を入れるのだと思うと、考えないようにしていた緊張が姿を見せる。
「さて、今日はどういった風に致しますか?」
「そうね、少し毛先を整えて欲しいのと、終わったらアレンジしてくれると嬉しいわ」
 キサラのわざとらしい口調にシオンから笑みが溢れる。整える、ということはきっと長さを大幅に変えることはしたくないのだろう。髪の短いシオンもきっと綺麗だが、見慣れたこのポニーテールがキサラは好きだったため安堵を覚えた。
「アルフェンは長いのが好きなのか?」
 ふと浮かんだ素朴な疑問を投げると、シオンはなぜそこでアルフェンの名前が出てくるのか分からず首を傾げるが、追及する様子はなくそのまま続ける。
「そうね、髪を切ると言ったら、どのくらい切るんだ!? と差し迫ったような顔で言われたから、長い方が好きなのかもしれないわ。それに……」
「それに?」
 意図して切られたような言葉が気になり、ちらりと目線を彼女の顔が見える位置に動かす。そこには頬を赤らめながら指先で髪をいじっている姿があった。
「……アルフェンに髪を触られるのが、好きなの」
 その言葉だけで二人の新婚生活はとろけるように甘く、幸せなものであると想像することができた。きっとここにリンウェルがいたら、いつかの時のように顔を赤くさせもじもじとするのだろう。
「それでは気合を入れてやらないと行けないな」
「ええ、お願いするわ」
 結いあげられたシオンの髪をほどき、そのまま丁寧に櫛でとかす。気は張っているものの、自分を選んでくれたことが嬉しかった。
「じゃあ、始めるぞ」
 シオンがこくりと頷いたのを確認し毛先を指にとる。そしてもう躊躇うことなくそれに鋏をいれ、しゃきんと音をたてた。緑の大地の上に薄紅の髪が広がる様子に勿体ないといった感情も生まれるものの、これから彼女はより一層綺麗になるのだ、と思えばその気持ちもすっと消えていった。
 髪を切ることに集中し自然と言葉少なになれば、元来この地は静かな土地である。聞こえるのは鋏の音と鳥の声だけとなり、穏やかな時間が流れていく。
 ふと、聞いた話ではあるが、アルフェンとシオン二人の出会いと、そこからリンウェルが仲間になるまでの旅路を思い出す。リンウェル曰く、二人がこんな風に結婚するなんて、あの時は想像することもできなかったという。それを言うなら、リンウェルもこんなにシオンを好きになるとは思わなかったんじゃないか? と言えば、「それは別の話なの!」と頬を膨らませられた。
 キサラが出会ったときもシオンは他人と距離をおり、それこそ〈荊〉だけでなく、自分自身に触れさせないように壁をつくっていたきらいがあった。触れれば激痛に襲われる〈荊〉の女。そんな彼女に躊躇いなく触れ続けたのは、あとにも先にもあの男だけだろう。
 そんなことを考えていると思わず口元から笑みがこぼれてしまう。シオンは不思議に思ったのか、しばらくの間閉じていた口を開いた。
「どうかした?」
「いや、悪い。どうもしてないんだが……。こんな風にシオンの髪を切るときが来るなんて、と思ったらつい、な」
「ええ。だからこそキサラに切って欲しかったの」
 穏やかな口調で言うシオンは、きっと髪を切って欲しかったのではなく、それを通してキサラと触れ合いたかったのだろう。少し回りくどいような気もするが、今まで誰かに甘えることなどできなかったのだ。
「今まで一人でやるしかなかったの。幼い時は自分でなんとかするしかなくて、失敗して泣いてしまったこともあった。何度か繰り返すうちに、きれいに切るコツを身に付けたのよ」
 一人きりの部屋の中、慣れない鋏を片手に自分の髪を切る姿を想像し、キサラは心が痛んだ。書物とにらめっこしながら作り上げた三つ編みが不恰好でも、それを直してくれる人はいなかったのだろう。
「だからこそ、今がとても幸せなの。キサラがいて、アルフェンがいて、みんながいて」
 彼女がどんな表情でそう言ったのかはわからない。けれど一人で生きるしかないと決め、孤独に死への旅路を歩んでいた彼女が、今幸せだと言っているのだ。
 胸の奥から気持ちが込み上げてきて、近くの机に役目の終わった鋏を置くと、後ろから優しくけれど思いをこめてシオンを抱き締めた。
「キ、キサラ?」
 シオンが振り返るもののキサラの顔はきっと見えないだろう。代わりに言葉で伝えようと口を開く。
「お前が幸せで、アルフェンに愛されていて、とても嬉しい。何度目かはわからないが、言わせてくれ。――結婚おめでとう」
 そう言ってキサラはきゅっと腕に力を込めた。そうだ。自分はきっと、大切な仲間が、大好きな友人が幸せであることが、なんのしがらみにも囚われず心から笑ってくれることが嬉しいのだ。
 彼女の笑顔をいちばんに引き出せるあの男にほんの少し悔しさを感じてしまうくらいには、自分はシオンのことが大好きなのだ。
「キサラ」
 優しく自分の名を呼ぶ声が耳元で聞こえる。キサラが顔をあげるとシオンと目があった。空の色を映したような綺麗な瞳。終わりを見つめ続けていたそれは、今は未来を見ている。
「ありがとう」
 そういってシオンは、花開くように笑った。それにつられ、キサラもまたニッと笑い、仕上げに取り掛かるため櫛を手にする。
「最後に、アレンジはどうする? シオン」
「そうね、それじゃあ――」
 

 大きな皿の上にあった焼き菓子が空になる頃、窓の外はすっかり茜色に変わっており、玄関の方からドアを開ける音がした。それが聞こえると、シオンは「ちょっと行ってくるわね」と言い残しぱたぱたと駆けていった。
 遠くから、髪をアレンジしてもらったことを嬉しそうに話すシオンの声と、それに対し感想を言う男の声が聞こえる。自分の仕事を褒められてまんざらでもないキサラは立ち上がり、ティーセットと空の皿を簡単に片付け、シオンを追いかけるように玄関へと向かった。
「キサラ、帰るのか?」
「そうよ、もう少しゆっくりしていっても……」
 帰り支度を整えてやってきたキサラを見て、男は自分が帰ってきたことで、女子会の時間を邪魔してしまったのではないかと申し訳なさそうにしていた。気にしている彼に、このあと予定があってなとそれらしい理由を伝える。彼が帰ってきたということは、きっと約束相手も宮殿にいることだろう。今日はテュオハリムを夜釣りに誘ってみようと、この後の予定を今決めた。
「今日はありがとう。キサラ」
 シオンはキサラの手によってアレンジされた髪を揺らす。自分と同じウェーブがかった薄紅の髪。キサラとお揃いにして欲しいと言われたときには気恥ずかしかったが、今はこれを彼に見せつけたいという悪戯心もある。
 リンウェルの、たまには自分とも遊んでほしい、アルフェンばっかりずるいとぼやいていた気持ちがわかってしまう自分がいるのだ。
 彼はキサラとシオンが並んだことでやっとこの悪戯に気が付いたのか、ほうとため息をついていた。そんな彼の様子を見て、シオンと顔を見合わせ笑いあう。
 少しだけ雑談をしたのち、去り際に彼を視界の中心にとらえる。ちらりと端に映るシオンは穏やかに微笑んでいた。
「――アルフェン。シオンを幸せにするんだぞ」
「ああ。任せてくれ」
 信頼のおける友人に、自分の大切な親友を頼むと、アルフェンははっきりとそう答えた。その言葉に満足したのち、キサラは二人の家を後にする。
 遠くの空の色は茜から紺に変わっていて、姿を見せ始めた星が新婚夫婦を祝福しているようだ。来た時と同じ気持ちの良い風に吹かれ、キサラの髪はなびいていた。